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2006.12.04

教室での傷つき

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今日の「のだめカンタービレ」では、千秋のトラウマが取り上げられていました。

誰でも心に傷を持っています。それを学校で受けた人も多いのですね。私の場合は違いましたが。

いろいろな傷つきをとどうつきあっていくかは、各人の課題です。そこにいい、悪いはありません。時期がくるまで、缶詰にするのも、漬け物にするのもありだと思います。でも、向き合える、向き合わなければならないときがきたら、逃げないで、がんばりましょう。

さて、教室での傷つきというと、私には思いつくことが1つあります。授業をしていて、ある日気づき愕然としました。

授業で勉強しない生徒たちがいる。その子たちにとって、いつからでしょう、おそらく、中学の3年間、あるいはもっと前からずっと、授業はわからないものであり、教室はそれでも決められた時間座っていなければならない場所である、ことに気づいたのです。彼らが授業で身に付けてきたものは勉強しない習慣であり、教室はまさに、彼らから自信を奪う場である、ということに、私は思い至りました。

「生徒から自信を奪うような授業をしては意味がない。生徒から自信を奪ってはいけない」と強く思いました。

それから、なんとかして、ちょっとでも、1つでも、わかったという実感、できたという達成感が得られる授業ができるよに、工夫を重ねています。

具体的にはいろいろありますが、きっと板書の量は多い方です。丁寧なつもり。

大きな特徴は、生徒を当てないこと。「私は当てません。だって、わからないこと答えさせられるのっていやでしょ」と最初に生徒に言います。その代わり分かった生徒が手を挙げて答えます。答えるとポイントがたまるしくみになっているので、うまくいっています。

授業をさぼる(寝る、読書する)のは静かにしている限り自由です。(とは、生徒にはいいませんよ。全体に対して、「授業中は勉強しなさい。勉強はしたほうがいい」と口をすっぱく言っています)ただし、毎時間その日の課題の量が決まっていて、それができたらスタンプがもらえます。スタンプは絶対に授業中しか押さないので、教室にいても課題をしない限りスタンプはもらえません。スタンプは平常点になります。それを承知で課題をしないのは、本人の選択として尊重します。(大変無責任な教師です↓↓)

課題はテキストの和訳や並べ替えの英作問題が多いです。可能な限り1人1人のノートを見て、できていないところを指摘し、やり直しをさせています。説明はいくらでもしますが、答えは自分で見つけて書いてもらう、というのがねらいです。

ということで、仲間作りだけでなく、生徒が達成感を感じられる授業をがんばっているつもりですが、現実はなかなかです。そのとき、1クラス40人は確かに多いですね。

私には、生徒一人一人を大切にして、少しでもその子なりの達成感を持たせることしか授業での目標設定はできていません。いじめの問題や、教室内のひずみをどう扱うか、魔法のような方法があったら知りたいです。不十分な私の取り組みは、たとえばいじめの解消に、なにかつながるところがあるのでしょうか。全く見当違いなのでしょうか。

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臨床について」カテゴリの記事

コメント

mizuさん、コメントありがとうございます。

もちろん、この[先生」もゼロにならないから諦める、という考えではないと思いますし、いじめは絶対にしてはいけないと考えていらっしゃると感じました。

ひろみさんが「魔法のような方法があれば知りたい」とおっしゃっていましたが、この先生の考え方は「魔法のような方法はない」っていうことだと思うんです。あれこれと、いじめに効く薬の作り方を考えるアプローチは行き詰ると。

「いじめをゼロにしようとする」のと「ゼロにしようとしない」ので、アプローチの仕方が変わってくるのかわかりませんが・・・。

ところで、学校の先生には、いじめに対してこういう対応をしなさい、というようなマニュアルなどがあるんでしょうか?

投稿: tomato | 2006.12.09 16:52

tomatoさん、mizuさん、コメントありがとうございます。

人間関係は、私にとって、とても大きなテーマでした。また機会をみてとりあげたいです。

違和感を感じる子はいると思います。私は強制はしていないつもりですが、負担をかけているかな…休みが多くても学校に来ない子はいないので、まあいいことにします。

投稿: ひろみ | 2006.12.09 13:42

>私の先生は「いじめはなくならない。いじめをなくすということは、人間関係をやめろということ。いじめをゼロにしようとする取り組みはどこかで行き詰ります」とおっしゃっていました。

ちょっとこれについて思うことを述べさせてください。これは見過ごせない言葉です。勿論、tomato
さんを責めているのでないことは以下を読んでいただければおわかりかと思います(tomatoさんも「極端な意見」と感じておられますし)。

こういう考えを「先生」と言われる立場にある人が述べておられることが全く信じれない、ということです。「ゼロにしようとしても無くならないけどゼロにする努力をする」というのなら分かりますが、「行き詰るからゼロにしようとはしない」というのは、本末転倒、論理が崩壊しています。いじめられている人が聞くとどう思うでしょう。

一事が万事。平和憲法は理想であり実情に合わないから、多少戦争に加担できる憲法にしておこう、とする人々が増えるのはこういう先生のような人々が増えたからなのでしょうか。このままの論理だと戦争さえ認めかねません。

それにこの論理だと、いじめだけが人間関係か、と言いたくなります。勿論、どんな活動でも攻撃性は混在している、攻撃性こそが人間の行為だ言えなくはないのですが、それでも「いじめ」という事態には至らないにしようとするからこそ、昇華があり文化があるのではないでしょうか。

投稿: mizu | 2006.12.08 21:37

tomatoです。
教室で起こっていること、についてたくさんのご意見参考になりました。

ひろみさんが教室でやられているいろんな取り組みは、絶対に意味があると思います。
ただ、やはりいじめ問題などに効く「魔法の薬」はないように思います。
私の先生は「いじめはなくならない。いじめをなくすということは、人間関係をやめろということ。いじめをゼロにしようとする取り組みはどこかで行き詰ります」とおっしゃっていました。
確かに人と関わることをやめればいじめられることもなくなりますね。
かなり極端な意見だと思いますが、いろいろ考えさせられました。

正直、私は今教育現場にいるわけではないので、学校の現状はわかりません。
実は、私の意見に対してひろみさんからショックを受けたというコメントをいただいて、私も少しショックを受けました 笑
私にとっては普通に感じていることが、他の人にショックを与えたことにです。もしかして私の考え方、すごく冷たいのかも?とか思いました。

でも、いろんな方のコメントを読ませていただいて、何が正しい間違っているはわからないですが、自分の考えはそれはそれで大丈夫なんだと思え、ほっとしてます。

ひろみさんの取り組みはすばらしいと思うし、多くの子どもたちが楽しく仲間を作り、充実した学校生活を送っていると思います。
でも、周りと同じようにできない子がいたり、教室で違和感を感じている子どももいるのも確かでしょう。

そういう子どもたちに何ができるのか、正直私もわかりませんが、とにかく「あなたは、あなたのままでokだよ」と大人が保障してあげることが大事なのかなあと感じました(↑私がいい例ですね(^^;))。
もちろん、学校の規則や集団への協調性は必要ですが、それができるのが当たり前ではないし、大変なこともある。私自身、中学のときは、なぜスカートはひざ下じゃないといけないのか、髪の毛は肩についたら括らなければいけないのか、さっぱり理解できませんでした。どうでもいいじゃんって。

今思えば、どうでもいいんだしとりあえず規則は規則として守っとけばいいのにと、昔の自分に思いますが、その頃はどうしても決められた枠にはまるのがいやだったんですね。

学校だから、集団活動しないといけない、規則を守らないといけない、そういう前提の前に、1人の人間として相手を認めてあげる、それを伝えてあげることが大事なのかなあと。

だんだん抽象的になってきてしまいました。
すいません・・・

投稿: tomato | 2006.12.08 13:46

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